途中からテーマが少し移動して締めくくる文章になっている.
# 診断基準がすべて
病理診断において(もちろん一般臨床もそうだけれども)昔と異なり現在では腫瘍を中心に診断基準が整備されており,原則的にその基準に沿って診断をしている.臨床だとガイドラインという名のもとに何冊もの本が出版されている.その結果,昔でいうと診断者間にブレがあったり,大御所がこう言ったらこう,という病理診断にも標準化がもたらされ,標準的な診療なるもの寄与している.
(標準的という言葉は,普通で取るに足らないものという誤解を生みがちだが,現代医学の叡智を結集した最高水準というニュアンスに置き換えても遜色ない.種々の事情で標準的にならない医療も世の中にはあちこちに存在している)
特に病変に特徴的な遺伝子異常の同定は破壊力があり,例えば,いくら横紋筋肉腫に見え筋系マーカーが陽性になっていたとしても,MDM2 遺伝子の増幅が見られれば,多くの専門家は脱分化脂肪肉腫の脱分化成分を見ているのだろうと考える.遺伝子異常が見つかる前はほぼ全員が横紋筋肉腫と答えていたであろうに.
こういう話をすると,なんだ,病理医って基準に沿って白黒つけるだけの仕事なのね,という誤解を招きそうだが,違う.まぁその程度の理解しか出来ない医学生や研修医を誘っても教育に苦労しそうなのが目に見えているので,「そうですね,お先真っ暗だよ」といってかわすこともしばしばある.
# 診断基準があるようでないもの
診断基準が整備されればされるほど,診断基準がないものをどう診断するかという問題に焦点が当たりやすくなる.そして一見診断基準がありそうだけれども,その根本のところの基準が極めて主観的になっているものも少なくない.
例えば腺癌と診断をすれば,分化度や亜型に分類する.しかし,腺腫と腺癌を区別する基準は細胞の異型,平たく言えば顔つきの悪さによることになるが,どの程度だと腺腫でどの程度だと腺癌かということを言語化することは難しい.
もちろんある程度の水準に達した病理医間での一致率(いわゆる κ 係数)は非常に高いのだが,正直自分は腺腫と腺癌をどこで区分するのか明確には出来ていない.特に adenoma-carcinoma sequence が確立されている大腸癌などでは強く感じる.
このような,言葉にできない何かがあるからこそ,病理診断のトレーニングは実践をしながら上級医から所見の評価方法について feedback を受けてその道に沿うように少しずつ修正をするのがよい,ということになっている.
言語の習得に似ているところがある気がしていて,本で勉強すべきことと実践すべきことがある.
# 闇多き病理解剖
一般的な組織診断と細胞診断は診断基準がだいぶ確立されてきた一方で病理解剖については21 世紀のこのご時世でも診断基準ができそうな気配すらしない.仕方のないことではあるが由々しき事態である.
これまで何度も言ってきたように,病理解剖の報告書は必ず結論が決まっている.それは
患者は死亡している
ということである.これだけは絶対にぶれないし,そういう意味では間違った結論に誘導されることはありえないので一見するとあまり難しくない.しかしこの結論へ至った経路に関する説明を求められるのが特徴的で,結論を求められる組織診断や細胞診断とは対照的である.この経路を求められる,という点が決定的な違いで研修医の先生たちが苦しんでいる点と思われる.
しかし,例えばだが,誰かが大阪から東京へ行くとして,東京にたどり着いた本人の見た目と途中の経過スポットで撮影された写真や目撃者の証言から,経路を割り出せというようなもので,常識的に考えると無理である.そういうはなから無理なことを要求されているため,研修医のみならず我々も苦労しているのである.
途中の名古屋あたりで撮影された写真では新幹線のホームが写っていたとすると「新幹線で来たのか」と思うだろうが,もしかしたら自転車で行って名古屋駅で入場券を買ってホームで記念撮影,かもしれない.そんなことされたら絶対にわかるはずもない.
# 文脈に沿った診断・解釈
上記事情から剖検例の病理解剖学的診断は臨床的な文脈を強く意識している.名古屋駅の前後で新幹線の画像があれば名古屋駅は途中下車したのだろうと推測をするし,前後が自転車の写真であれば名古屋駅は入場券を買って入ったのだろうと推測をする.見えている事実は「名古屋駅にいた」だけなのだが,その解釈は文脈に強く依存する.
とはいえ,どんな解釈もありというわけではなく,例えば飛行機に乗っていて途中で名古屋で降りることは(よっぽど特殊な事情がない限りは)合理的ではないので多分違うだろうといった判断をしている.
しかしだ.死亡している以上検証のしようがないということは様々な想像を生み出すことがある.
この人は名古屋のコンサートがあってそこに行きたくて急いでいたはずだ.ちょうど関西国際空港にいてしかもコンサート会場が中部国際空港の近くだったから飛行機で行って,その後新幹線で東京駅に向かったはずだ.
といった妄想に近い文脈の構成も可能であり,そして一番の問題は
誰もその文脈の仮説を否定できない
私はこう思う,ということ自体は自由であり,何人たりともそれを否定することは出来ない.すると優先順位は立場の順になり,平たく言えば部長が A と言ったら A ということになる.
# 総合的判断という究極の主観的診断
結局のところ,総合的判断は究極的に主観的診断ということになる.もちろん主観が悪いわけではない.その人の経験に裏打ちされた主観はしばしば真実に近い.しかし,その主観を否定することは困難でかつ検証が不可能である.
剖検例を中心に話を展開したが,実際のところ組織診断や細胞診断でも診断基準があるにも関わらず,主観による部分が少なからずある.結局主観的な評価からは逃れらない運命にあり,これを一言でまとめると
部長の言うことは常に正しい,あるいは偉い人の言うことが常に正しい
という結論になる.言い換えると正しい病理診断をしたければ偉くなれということになるし,裏を返すと偉くない人の病理診断は必ずしも正しいとは限らない.
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