生存していたという事実と死亡したという事実
これもやや哲学的な言い方になるが,病理解剖の報告書を書く際に,確実なことは死亡するまでは生存していたという事実と,当然ながら死亡しているという事実である.この 2 つは決して揺るぐことはない.
何が言いたいかというと,「この程度の心臓の病変で死ぬはずはない」とか「この肺はいつ死んでもおかしくないくらい非常に重篤だ」と思っていても,結果的に死亡しているのだし,それまでは生存していたのだから,その結果に矛盾をしないような説明をしないといけない.
スタートとゴールが確定しているストーリーの中で,その間をどのように説明,展開していくのか,場合によっては安っぽい小説や大人の事情で終わってしまうワンクール未満のドラマのように強引に結末へ持っていく必要があるかもしれない.
病態生理学的に考えるということ
病理ですら EBM や遺伝子異常でものを語るこのご時世に,病理解剖報告書は未だに?病態生理学的な議論展開をしている.
理由は簡単で,生検や手術材料のように標準化がとてもしにくいからで,おそらくほぼ不可能.〇〇の治療を行ってから 1 週間後に死んでくださいなんてそんな無茶なことなんかできないし,循環不全のまま数日間経過して亡くなることもある.解剖を行ってからは標準化は可能だが,解剖に至るまでの状況が個々人で非常に異なるので一般化が極めて難しい.
すると,使える武器は病態生理学的な思考以外にはない.右心不全→肝うっ血,下腿浮腫 etc などのそれ.地味ではあるが,こうやって一つずつ証拠を積み重ねて全体のストーリーを構築し,「こんだけの病変があったから死亡したとしても仕方がない」と多くの人が納得できるように説得することが死因を書くという作業だと考えている.
臨床的文脈に沿うこと
病理診断は臨床診断に引っ張られない方が良いと考えている人たちが一定数いるのは理解している(臨床医と病理医両方にいる).しかし,病理診断は臨床的な文脈から切り離されると大なり小なり意味を失ってしまう(これは腫瘍であっても,そう).
なぜ?と感じたのであれば病理診断に対する理解がまだ乏しいと言える.病理診断は臨床的な文脈のもとに定義されるものだから.極端なことを言えば胃の腺癌は臨床的に胃に病変があると判断されるから,病理学的にも胃の腺癌と言えるわけで,もしこれが小腸であれば小腸の腺癌かもしれないし,異所性胃粘膜由来の腺癌かもしれない.
特に病理解剖のようにある種の総力戦で診断に取り組む場合には臨床的な文脈に乗った診断をする必要がある.少し言い換えると,臨床経過中に起こったイベントを病理解剖の所見からうまく説明できれば合格ということ.もちろん全てが説明できるわけではないのだが,それらのイベントを説明しようとすることが臨床病理相関を検討することになり,報告書に重厚さがついてくる.
腫瘍死という考え方
どどたん先生は腫瘍死という表現があまり好きではない,が実際にはしばしば使っている.腫瘍が多臓器に転移をした結果,多臓器不全を来して死亡した時に使われることが多いように思う.
例えば,腫瘍細胞が肺の毛細血管やリンパ管に詰まって癌性リンパ管症や肺腫瘍血栓性微小血管症を来したのであれば,換気はできていても毛細血管レベルで酸素,二酸化炭素の交換ができなくなり低酸素血症を来したんだろうなという推測は比較的容易である.
しかし,臓器一般的にどの臓器にどの程度腫瘍が浸潤すれば多臓器不全と言えるのかという指標は存在せず,診断医の impression に依存することが多い.
結局基準がないものを判断することはできないわけで,悪性の腫瘍が存在すること,複数臓器に腫瘍が転移していること,全身が衰弱状態が容易に推定される臨床経過であること,他に直接的な死因となるものが存在しない時に腫瘍死というキーワードを用いることにしている.
終末期の誤嚥性肺炎を腫瘍死の中にどのように組み入れるかは難しい問題である.
結局最後は低酸素血症
この項目は正直言っている自分でも全く自信がなく,誰か詳しい人がいたら教えてほしい.
病理解剖に回るような症例であって交通事故などは除く,という全体だが,どういう経過であれ最後は低酸素血症で人は亡くなると思っている(老衰は?と言われると分からない).
よって,死因を探す時に低酸素血症を来しうる原因はなんだろうかと考えながら診断をしている.肺や心臓が思いつきやすいが,肝臓であっても例えば「肝硬変→肝性脳症→昏睡→舌根沈下→窒息→低酸素血症」だってあり得る.病変を見て,臨床経過と照らし合わせ多くの人が納得してくれるようなストーリーを考え出す.
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