# 続きの話
カンボジアに到着した翌日に,懇意にしていただいている,とある日系の病院に見学をさせてもらって色々とお話をしたところ,前回ブログに書いたようなことはだいたいあっていたみたい.でもこれを改善するのはなかなか難しい,というか個人で改善するとかそういうレベルではない.
# マクロ図の作成
分かる人には分かってもらえるカンボジア病理あるあるの一つに,写真撮影あまりしない・マクロの切り出し図を作らないというのがある.すべての病院・検査センターで確認した訳では無いが,これは面倒を見ていた検査センターだけではなく多分カンボジアの病理一般に言えるのではないか?という気がする.彼ら,彼女らが研修に行った国は恐らくどこでもマクロ写真に線を入れて切り出しをしていたはずのように思う.写真だけ撮って(あるいは写真すら撮らずに)組織像だけで判断するのはとても危険なことであると,何度言ったことか.
なぜ彼らがマクロ図の作成をこれほどまでに拒むのかよくわかない.一つ言えるのはきちんとしたシステムを作らない限り結構面倒な作業で,さらにはぱっと目に見える結果に対するインパクトが弱い.切り出し図がなくてもある程度は憶測で診断できてしまう.しかも切り出しをした本人であれば,切り出し直後はある程度覚えているはずだろうから何ら問題はない.でも数ヶ月後,半年後に覚えていますか?と言いたくなる(実際何度も言った).
# この環境下で自分にできることとは
もっと厳密に言うと,そもそも自分がする必要があることなのか,というかなり根本的な疑問に突き当たる.個人でできることなんてたかが知れているし,全体に対するインパクトを残すことは難しい.本来はチームあるいはもっと大きな規模で取り組んでようやく結果が出せるか否か,ということになる.まぁせっかく関わりだしたんだし,というすごくゆるいモチベーションであることは認める.
前回の投稿でカンボジアには病理診断は不要,ということを言ったが,それは病理診断の前に解決巣べきことが山積みでそれらを無視あるいは軽視して病理診断の向上を図っても,インパクトが弱いあるいは空回りをするだけのように見えるからである.これで飯を食っている側からすると,必要に決まっているでしょ!とすごく言いたいのだが,彼らの目前のニーズを満たした上でさらに,という話になる.アウトリーチもぱっと病理診断の話をするのではなく,数段階に掘り下げた形で行わないと多分意味がない.自分にできることはとりあえずはなさそう,という否定的な印象.
# 最高水準の病院を作り上げること
今回,見て回った中で,カルメット病院は他の病院と違ってかなり近代的な建物ですごく良さそうに見えた(多分中身も充実しているものと期待したい).他の病院は,,,,悪くはないのだが少し厳しい印象.
日系の某先生曰く(かつ自分の見聞きした経験からも)クメール・ルージュ前後を生き抜いた人たちのカンボジアの医療に対する不信感は非常に根強い.実際自分が 5 年前にタイ経由で訪れた時に隣りに座っていたカンボジア人の老婦人と少し話をしたのだが,彼女は高血圧と糖尿病の経過観察のために定期的にタイに行っていると,しかも飛行機で.自分からしたらそんなのどこで経過を見ても変わらないでしょと思ったのだが,その後色々経験する中でカンボジアの医療は信用されていないことがわかった.病理診断も同じくで保健省の某幹部は「カンボジア国内での病理診断の信頼性が低いため,検体が海外に流出することを黙認せざるを得ない」と言っていたとか.確かに 2019 年時点は質が高いとは言い難かった.でも 2024 年の今は違う!昔と違う!確実に良くなって来ていてかなり高い水準にある!と声を上げて言いたいのだが,多分誰も聞いてくれない.
何でもそうだけど,質を評価するには評価する側にもある程度の素養が求められる.素養がない中での高評価はただの盲信である.日本製だからいいに違いないとかね.そして,もう一つ,日本の質と同等だと認めてもらうためには,日本の質を超える必要がある.同等では決して認めてもらえなくて,日本の質を超える非常に高い品質を打ち出せて初めてその価値を認められる.それまではただの劣化コピーという認識でしかない.
タイやベトナムに流出してしまう人たちをもとに戻すためには,一つでもいいからカンボジア国内で世界と同等の最高水準の病院を作って,そこをフラグシップモデルとして確立し,いわゆる富裕層の人たちが「カンボジア国内でここの病院で治療を受けて駄目なら諦められる」と思えるような状況を作り出すこと.もちろん貧しい人たちは受診できないかもしれない.でもそうやって最高水準の病院が要となって医療水準全体の引き上げに貢献する.その際に病理診断のパートとして,自分はその最高水準を提供するための少なくとも人的リソースとして提供する準備はできているのだが,恐らく声をかかることはなさそうだろうな.自分は好き勝手にやりたがるから.
そして最高水準の病院であるためには,カンボジア国内から何かしら世界に対して something new を出す必要がある.先ほども言ったが,悲しい現実として,同等はただの劣化コピーとみなされる.競合を超えるあるいは違う新しい価値を提供したときに初めて同等以上の存在としてみなされる.同等というのはお互いが切磋琢磨して拮抗している状況で初めて認識されるもので,「追いついた」状態ではない.
# Think globally, act locally
非常に有名な話で,確か地球環境問題が origin だったような記憶だが,結局何でもそうと言える.仮に検査センターのラインが潰れたとしても,他のラインはないのか,どこかに解決の糸口が見つかるのでは?個人でやっている以上はある意味完全に自由なわけで,それを常に考えているところ.
論理的に考えて見つからない解決方法も時間が経てば向こうからやってくる可能性もある.来たるべきチャンスを確実に逃さないために,情報収集と準備は常に怠らないこと.とりあえずは表面的に終わりになりそうだが,いわゆる commencement で終わりの先には新しい何かが始まるはず,である.
# ついでに
自分はカンボジアで自分のことを話をするにあたって,日本の病理医(日本での病理専門医,細胞診専門医,分子病理専門医)であることを比較的強調をしている.それはカンボジア人に対してもだし,カンボジアで働いている日本人に対してもである.特にカンボジアで働いている日本の臨床医に対しては,某有名病院でも勤務していることをちらつかせながら(安い給料で働いている分を取り戻すために?),こんなすごいところで働いている自分はとても優秀な病理医なんですよ!ということを暗に示し泊をつけている.
はっきり言って,同業者に対してこんなことをしてもただのナンセンスなのだが,カンボジア人や日本の臨床医には自分の実力がどうかなんてはっきり言ってわからないわけで,結局盲信的ではあるが,専門医だったり日本で仕事しているといった周辺的な情報で判断せざるを得ない.こういう売り方はあまり好きではないのだが,目的を達成するためには多少の味付けも許容されよう.そして多分しばらく一緒に仕事をしてもらえると,ちゃんと中身を伴っているのだということが次第に理解される.
某有名病院での勤務とか分子病理専門医とかマジでいらねーと思っていたが,今になって体外的な泊をつけるためには確かに必要なのかなとも思ってきた.だからといって維持したいかと言われると微妙だけどね.